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九品仏散歩 駅から歩ける6スポット 

紅葉の季節に、じゅん散歩でも訪ねた九品仏を歩いてみました。
浄眞寺は、さすが奥沢城跡、広い境内に自然一杯のお寺でした。
のんびりした大井町線でいく、東京とは思えない景色のお寺でした。

じゅん散歩九品仏はこちら!

①ホームから電車が余っちゃう九品仏駅!駅舎に2階がついてて気になる!

九品仏駅は、ホームが短いので、電車がはみ出ちゃいます。
駅につく前に、「最後尾の方は、車両をお移りください」というアナウンスが。
駅舎になぞの2階部分が!気になります。
駅前はにぎやかな踏切なので、落ち着いて写真はとれません。

◆九品仏がのってるツイート!左上の写真が気になる駅

◆昭和40年代の九品仏駅、そんなに変わらない!

◆列車がはみだしてる!降りる人は気合が必要だ

◆いい感じですねー

②紅葉の浄眞寺散歩

駅を降りたら、そこは参道です。

紅葉見物の人でにぎわっています。

境内に入ると

仁王門です。

こちらが阿弥陀如来像がいらっしゃる三仏堂の中の上品堂。

敷地が広くて、木が大きい。
のびのびします。

参道の左側が九品仏地区会館や、公園になど、地元の人の憩いの場になっています。
お寺には珍しいながめ気がします。

参道を出るともう駅!
参道を出て左側に行列が。
コムンという人気パン屋さんです。
紅葉の週末のお昼なので、混んでいました。
ぜひ、平日に覗いてみたいお店です。

絶対迷子にならないお寺でした。

③浄眞寺は奥沢城の跡。姫の悲しい伝説が!

じゅん散歩で歩いた浄眞寺の地は、かつては奥沢城と呼ばれていて、大平出羽守の城でした。
土地は、南から突き出した台地の突端にあり、三方を深い田(奥沢の底なし田んぼ)に囲まれていたようです。

大平氏は吉良氏の重臣で、北条氏が滅亡するとともに廃城になりました。
城の遺構などは無いそうです。

奥沢城淨眞寺には、姫の悲しい伝説が残っています。
淨眞寺の驚くほど充実のサイトに掲載されていたものです。

淨眞寺が創建する以前、この地には奥沢城が建っておりました。
奥沢城主大平出羽守には常盤姫という美しい娘がおりました。
年頃になると主君である世田谷城主吉良頼康の側室となり、常盤姫はその美しさのゆえに頼康の寵愛を一身に受ける様になります。
しかし、その事が原因で他の側室から妬まれてしまい、側室達は常盤姫が不義を犯したかのような告げ口を頼康にする様になっていきます。
何度も告げ口を聞かされた頼康は徐々にそれを信じ常盤姫を遠ざけるようになってしまいました。

悲しみにくれた常盤姫は、幼い頃から可愛がっていた白鷺の足に、自らの潔白を書き記した文を結びつけ、父母のいる奥沢城へ放ちました。
しかし、時を同じくして奥沢城近くで狩りをしていた頼康の目にとまり、白鷺は射ち落されてしまいます。

白鷺に近づいた頼康は足に結ばれている文に気付き、開き読んで愕然とします。
常盤姫の無実を知った頼康は急ぎ世田谷城に戻りますが、常盤姫はすでに自害しておりました。その後、白鷺を奥沢城近くに埋めて供養した所から草が生え、白鷺に似た花が咲きました。この花が「さぎ草」であります。

現在さぎ草は世田谷区の花とされており、境内「さぎ草園」に毎年8月上旬多くの花を咲かせております。

④浄眞寺の九体の阿弥陀如来像はどうやってできた?

お寺のホームページが充実!動画がトップページにはいっています。


◆浄眞寺の由来(お寺の説明板より)

創建の由来
当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院浄真寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万㎡(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。

◆九品仏と三仏堂(お寺の説明板より)

珂碩上人(1617~94)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。
九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。
上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるの、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。

⑤パティスリーR 九品仏の商店街

駅の南側にはいい感じの商店街が。


このお店は、ケーキとお惣菜を売っていて、にぎわっていました。
お惣菜もあるって、珍しい。

花屋さん。

⑥コンパスコーヒーとケーキの「オリオン」九品仏の商店街

コンパスコーヒー


オリオン

九品仏の商店街も、コーヒー豆のお店やパティスリーなど、にぎわっていました。

⑦旧玉川村 耕地整理のあと

九品仏商店街を南に歩きながら、東を見るとまっすぐな上り坂、西を見るとまっすぐな下り坂になっています。

このただならぬまっすぐな道は、旧玉川村あげての耕地整理のあとなのです。
田園都市線の二子玉川~桜新町、大井町線の二子玉川~緑が丘が範囲で、九品仏も子の耕地整理がされた道です。

浄眞寺は、この耕地整理に積極的に参加したと、「東京の歴史 6」2019年 吉川弘文館に書かれています。

<玉川村 耕地整理>

基盤を作ったのは、大正12年に40歳で玉川村村長に就任した豊田正治です。

当時、東急が、洗足や田園調布などの開発を進めていました。
玉川村の土地が安く売買されていることを憂いた、豊田正治。
「わが郷土の開発は地主みずからの手で行うべき」という考えを持っていました。

当時は農村だった玉川村では、もちろん反対も激しかったようです。
村民を説得し、全村の宅地化を見越しての耕地整理・区画整理計画・水道整備を進めました。
この事業は、玉川全円耕地整理と呼ばれています。
耕地整理は、組合が土地を買い上げ、整地後、所有者に売り渡すという方法で行われました。

・1926年(昭和元年)に玉川全円耕地整理組合が発足。翌年、工事を開始。
・1929年(昭和4年)には、目黒蒲田電鉄が自由ケ丘駅―二子玉川駅間を開業。
・1930年(昭和5年)に尾山台駅が開業。

壮大な計画だたっため、耕地整理が終わったのは、1954年(昭和29年)。
豊田正治は、完成を見届けずに亡くなりましたが、尾山台周辺は、広い道路と公園を持つ良好な住宅地となりました。

このように住民が主導権を持って、住宅地の開発をした例は多くないそうです。
他にも、井荻村(西荻窪)が知られています。
どちらも、今でも人気のある住宅地です。

参考:世田谷区ホームページ 玉川全円耕地整理

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コメント

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