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新美の巨人たち!日本橋三越本店を貴地谷しほりが!2019.12.7放送

番組のサイト

約100年の歴史を誇る日本初の百貨店『日本橋三越本店』。2016年に国の重要文化財に指定されました。1914年に建てられたあと、度重なる増改築を経て1935年、「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築として現在の姿になりました。
この建物にはあらゆる“美のカタチ”が潜んでいます。まず当時としては珍しく、今の姿にも引き継がれているルネサンス様式の建築。華やかな装飾が目を引きます。玄関を守るのは三越のシンボルともいうべき2頭のライオン像。中央ホールには、11mにも及ぶ麗しき天女像が。この木彫作品は製作期間約10年、製作費1億5千万円が費やされた一大プロジェクトでした。中央ホールに刻まれた三越の精神…そこにそびえ立つ天女像の斬新な制作手法とは?さらに一度も壊されていない建築構造には、令和の時代まで生き残った意外な秘密が!
1927年に修築した時には、百貨店の中に劇場を作るという新たな試みも。古くから変わらぬ姿で今なお残る時空を超えた空間にも、こだわりの美しい装飾がありました。誕生のきっかけとなった日本橋を襲った悲劇とは…。
三越の前身は、江戸を代表する大店・三井家の越後屋呉服店。赤字続きで一時経営が傾きますが、三越を作り上げ危機を救ったのは、久留米の侍でした。のちに“百貨店界の巨人”と呼ばれる男とは誰なのか?どのようにして百貨店へと変貌したのでしょうか?
日本橋三越本店の圧倒的な美しさ、壮大な歴史と対峙するのは、これまで番組でもさまざまな建築を巡ってきた女優・貫地谷しほりさん。さらに三越劇場の舞台に立ったことのある落語家・林家たい平さんが、その歴史を語ります。



オープニング

日本橋三越本店は、日本初の百貨店。
2016年に国の重要文化財に指定されたのだそうです。
今の姿にも引き継がれているルネサンス様式の建築。華やかな装飾が目を引きます。
この三越を、4つのポイントから見ていきます。

玄関を守るのは三越のシンボルともいうべき2頭のライオン像。
だれにも見られずにまたがると幸せになれるという伝説が。

まごころ 佐藤玄玄作

1つ目は、中央ホールのは、11mにも及ぶ麗しき天女像。
この木彫作品は製作期間約10年、製作費1億5千万円が費やされた一大プロジェクトでした。
改めてこの像を見上げた貫地谷しほりさん。
「今までちゃんと見ていなかった」

この天女像は、佐藤玄玄作「まごころ」昭和35年にできたそう。
今回、この作品を、特別の許可を得てドローンで撮影しました。

除幕式の映像が流れます。
作られてから、一度の塗りなおしもしていません。

作り方は斬新。
近代のフランスで注目されていた鉄骨づくりを採用。
彫刻というよりは、建築のような作り方だそうです。
絵の具も合成樹脂を多用。今でも亀裂がはいっていません。
セントくんの作者の方がそう解説してくれます。

◆三越のサイトより

この像は、三越のお客様に対する基本理念「まごころ」をシンボリックに表現する像として「まごころ像」ともいわれ、日本橋三越本店の象徴ともいえる存在です。
製作にあたったのは名匠・佐藤玄々先生。京都の妙心寺内にあるアトリエで、多くのお弟子さんとともに「構想・下絵・原形・試作」という数々の工程を経ながら、完成までには約10年の歳月を要しました。

昭和35年(1960)4月19日におこなわれた除幕式では、「天から舞い降りた天女が忽然と現れる」という演出のもと、像全体を被っていた純白の被いが美しい線を描いて落ち、人々の間からは期せずして大きなどよめきがおこりました。

三越日本橋本店

2つ目は本店の建築。
大正3年に作られ、スエズ運河以東最大とうたわれました。
こちらも画期的な工法で作られました。
西洋の作り方では、地震の多い日本には適さない。
鉄骨カーテンウォール式煉瓦造で、横河工務所の横河民輔が主になってつくりました。
日本初のエスカレーターが設置されました。まだ、床は畳敷きだったのに、です。
スプリンクラーも設置。

三越の歴史

三越の歴史をさかのぼると、三井家の越後屋呉服店.
徳川家綱の時代にできたそうです。
店頭での現金販売を始めて、栄えた呉服店だったそうです。
明治になって洋装がはやって、呉服店はお荷物に。
そこを救ったのは、三井銀行の 日比翁助。
「呉服店を近代化させることが自分のしごと」

慶應義塾の卒業生だった日比翁助には、商い を通じて社会に貢献するという<士魂商才>の精神があった。

デパートメントストア宣言をした日比翁助。
明治32年には、地方への通信販売をしていました。
日本初のファッションショーも三越。
店内に食堂を設置したのも三越。メ
メッセンジャーボーイという自転車のお届け舞台もいました。

◆日比翁助さんはどんな人?

・福岡県久留米藩士の竹 井家の次男として生まれた。
・いったんは地元の小学校の教師となったものの、 福沢諭吉の『学問のすすめ』などを読んで深く傾 倒し、明治13年(1880)20歳で上京、慶應義塾で学 ぶ。
・三井呉服店で働くことになった時、「私は武家の生まれで侍気質がいまだ抜けきれず、 おまけに九州久留米の田舎育ち。商人の才覚もあ りませんし、婦人相手の呉服商売など到底できま せん」と固辞したが、説得された。
・明治37年(1904)、三井呉服店を解散し、新たに 株式会社三越呉服店を設立する。百貨店 という言葉もない時代に日本初のデパートの誕生 を告げるデパートメントストア宣言が掲載された。
・欧米を視察した日比はロンドンのハロッズを 目標として明治41年(1908)東京・日本橋に木 造ルネッサンス式3階建ての三越本店を新設す る。欧米の輸入品を豊富に取り揃え、全国初の バーゲンセールを行い、食堂、写真撮影、展示会 場などのサービス施設も完備。品物はイギリス風 制服を着用したメッセンジャーボーイが自転車で 配達し、三越の名声は「今日は帝劇、明日は三 越」というキャッチコピーと共に全国に知れわた った。
・大正3年(1914)、スエズ運河以東の最大建築 といわれた本店新館完成。
・長年の過労で、神経衰弱を患い、58歳で取締役会長を 退任。抑鬱症状との闘病の末に70歳で他界する。

<参考:士魂商才に賭けたライオン ― 三越を創業した日比翁助 ―㈱日本設備工業新聞社 代表取締役社長  高倉克也>


三越劇場

3つ目は三越劇場。
本店の6階には三越劇場が。
上にあるステンドグラスは何層にもなった豪勢なもの。

関東大震災で、三越本店も打撃を受けました。
しかし、店内で亡くなった方はなく、震災から5日後には、商売を開始したそう。
復興後の人々をなぐさめるため、昭和2年復興した三越本店には、劇場ができたそうです。


中央ホール

4つ目は昭和10年に作られた中央ホール。
なぜ店の真ん中にこんなホールを作ったのでしょうか?
最上階まで吹き抜けになり、パイプオルガンも設置。
お客さまにほっとしてもらうためです。
その後に三越は、戦後すぐにもクリスマスセールをおこない、厳しい時代にも夢をあたえてきました。
◆三越のサイトより

大正3年(1914)、4年の歳月をかけて完成した三越新館には、日本初のエスカレーターをはじめ、エレベーター、スプリンクラー、暖房換気など最新設備が施され、東京の新名所として話題をさらいました。「中央ホール」が誕生したのもこの時で、広さは214m2、採光天井をとりいれていました。

昭和10年(1935)の増築改修後には、400m2となり、大ドームの下に1~5階まで打ち抜かれたライトウェルが特色の豪華な大ホールとして生まれ変わりました。

現在では常駐するガイドが、お買物のご相談や、さまざまなサービスをご紹介するレセプションが新しい顔となり、また新春の「はしご乗り、木遣りご披露」や年末の「第九の大合唱」などは恒例の名物イベントとなっています。




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