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ブラタモリ西陣!再放送予定!全ルート紹介!2019.07.13放送

再放送予定は?

見逃した方が気になる再放送予定。
ブラタモリ#139 西陣は、9月3日(火)再放送予定です!

再放送の枠は、火曜日の

最近の回の再放送は、
ブラタモリ#135 ちばらぎ(6月1日(土)放送)→7月16日(火)再放送
ブラタモリ#137 白金台(6月22日(土)放送)→7月23日(火)再放送
ブラタモリ#138 阿蘇(6月29日(土)放送)→7月30日(火)再放送
ブラタモリ#139 西陣(7月13日(土)放送)→9月3日(火)再放送

#140 釧路湿原(7月20日(土)放送)、#141 阿寒湖・摩周湖(7月27日(土)放送)
については、番組ホームページには再放送予定が掲載されてされていません。(9月1日現在)

このサイトでは、ブラタモリの全ルートをくわしくレポートしていきます!

番組内容紹介

2019年7月13日放送のブラタモリは京都西陣です。

「西陣織」の産地・京都の西陣。日本を代表する高級織物は、どうしてこの地で生まれ発展したのか?その謎をタモリさんが解き明かす▽応仁の乱の痕跡を探してブラブラ歩き!

「ブラタモリ#139」で訪れたのは京都の西陣。「西陣織」を生んだこの町の成り立ちを探る▽機織り職人のスゴ技に驚き!?▽応仁の乱はご近所同士の戦い?「西陣」の由来となった戦の秘密をたどる▽町の発展のカギはヘリにあり?船岡山の岩に隠された謎▽江戸時代のセレブに愛された高級織物のお宝を拝見▽遷都で訪れた大ピンチ!明治時代に西陣織を復活させた最新技術とは▽タモリさんもお気に入り・京都ならではの町並みを堪能

【出演】タモリ,林田理沙,【語り】草彅剛

林田理沙アナの名シーン・衣装・プロフィールなどはこちら!

「京都らしい町並みです。このあたりには、本隆寺というお寺があり、行きつけの蕎麦屋もあり、一人で来たことがあります。プラプラと」とタモリさん
「一人ブラタモリですね」と林田アナ。

【ナレーション】
西陣ははタモリさんのお気に入りの町。生活感のある町屋の光景、普段着の京都を見られる場所として知られています。

「ここでやるということは、テーマは西陣織だよね?」
テーマがやってきます!

「織物の町・西陣はどうしてできた?」

「なんで、というのはわからないなぁ」


西陣はどんな織物?

ここでの案内人は、鳥井光広さん。地元の方で、西陣織について調べています。
案内人さんについては、後ろの方で詳しく書いています。

「京都を代表する高級織物、雅子妃のご成婚のときの十二単衣や、迎賓館の花鳥の間の内装にも、西陣織が使われています。
西陣がどんな織物で、なんでこの西陣で作られたのかを見ていきましょう

【ナレーション】
西陣織は、舞子さんの帯、伝統芸能の衣装などに使われ、京都に押し寄せる観光客をとりこにしています。でもなぜ、西陣織は、この地に生まれ発展したのでしょう。今日はその理由を解き明かします。

まずは、西陣織ミュージアムで本当の西陣織とはどんなものか見せてもらいます。

「3つの織物をくらべてみてください。手触りも全然違いますね。立体的な模様は、緯錦(ぬきにしき)は、紀元前200年の中国がルーツだといわれています。綟り織(もじりおり)は一度衰退してよみがえった織物。南蛮から渡来して、信長を魅了したポルトガル生まれのビロード。生まれたところも全然違うけれど、全部西陣織です。
いったい、何をもって西陣織というのでしょうか?」

「西陣で織られたから」とタモリさん。
「そうです。よくご存じ!」と案内人鳥井さん。

タモリさん、林田アナ 西陣織の技を見る!

家で西陣織を負っている織子(おりこ)さんの家を訪ねます。
細長い家で、家の中に土間があります。

森紗恵子さんは、つづれ織りを織る織子(おりこ)さんです。
織機で織っているところを見せてもらいます。
白いたて糸に、色のついたよこ糸を通します。おさという道具でつめます。
細かい部分を、大小のくしで押さえます。
「一番細かいところはどうやって押さえると思いますか」
織子の森さんが尋ねます。
「爪?」とタモリさん。
「すごいですね!今(答えを)思いつかれたんですか?」驚く森さん。
森さんの爪はギザギザ。ヤスリで爪の目立てをして、爪に小さな引っ掛かりを作っています。
この方法で作る織物は、爪掻本つづれ(つめかきほんつづれ)と言われ、最高級品です。今織っているようなものだと、1時間で5cmしか織れないそう!

このような高度な技を持つのは、織子(おりこ)さんだけではありません。
「工程は20個以上、それぞれに専門の職人がいて、一人前になるのに10年以上かかります。」
それにしても、西陣はなぜこのような町になったのでしょう?
「次の案内人が待っていますよ。」
西陣織の案内人の鳥井さんとは、ここでお別れです。


応仁の乱はご近所同士の戦い?「西陣」の由来となった戦の秘密をたどる

住宅街に見覚えのある後ろ姿。ブラタモリ案内人8回目の梅林さんが登場です。
→案内人さんについては、後ろの方で詳しく書いています。

「なぜ西陣というかわかりますか?」
「応仁の乱の西軍の陣地でしょう?」とタモリさん。
「林田さん、ついてきてますか?」
「私は知りませんでした」と林田アナ。

応仁の乱は、山名氏と細川氏の戦い。京都を焼野原に変えた戦い、西陣は、西軍山名氏の陣地!
「応仁の乱を知ると、西陣織の秘密がわかります」と梅林さん。
「屏風絵 上杉本洛中屏風」には、応仁の乱の建物や道の様子が描かれているそうです。

が東軍・西軍の境界だったことがわかります。その川は、昭和30年代に暗渠化されてしまいましたが、我々暗渠Loverは跡をたどることができます!」暗渠好きの梅林さん、川の話で熱が入ります。

一行は、「屏風絵 上杉本洛中屏風」を見ながら、東軍・西軍の境界となった川の跡を歩きます。
砂利、橋の欄干のあとなどから、川の痕跡をたどることができます。

歩道に口をあけた茶色い岩!
「橋脚の台?」「そう、橋脚の礎石(そせき)ですね」
応仁の乱有数の激戦地、百々橋(どどばし)の跡です。
すぐ隣は、細川氏のお屋敷、東軍の本陣です。
「東軍の本陣のこんな近くで激戦があったんですね」
下の写真は、ブラタモリのサイトより、百々橋の礎石を見るタモリさん。

今も残る別の橋の上に来ました。小さい橋です。
「林田さんは西軍に、タモリさんは東軍になってみてください。」と案内人の梅林さん。
橋の上で、二人は戦いのポーズ!
「ここをはさんで戦うなんて近いですね」と林田アナ。
「応仁の乱は、近所同士の相続戦い。巻き込んで大きくなって、誰のために戦ったのかわからない。勝ちも負けもなく終わったような変な戦いだから」とタモリさん。

一行は、西軍・山名氏の本陣(西陣)も見に行きます。
「ここが西陣あとです。ここもすぐ近くですよね。」

【ナレーション】
応仁の乱は、ご近所同士が小さな川をはさんで戦ったのです。
結果として、焼野原になり、住民はみな逃げ出しました。
逃げ出した住民の一部は、貿易の盛んな堺の町で、海外の織物の技術を身につけ、京都に戻った後に、この西陣から、織物の技術を京都に広めました。これが西陣織のはじまりです」


町の発展のカギはヘリにあり?船岡山の岩に隠された謎

ブラタモリ一行は、西軍の本陣から1キロ北西の鞍馬口通りにきました。
タモリさんは「ここは京都に来ると必ずくるところ。うまい蕎麦屋、漬物屋、魚やのポテトサラダがあるんだよ」→記事の最後に情報あります!

ここには、西陣織りが発展のかぎがあります。船岡山にやってきました。

「ヒントはあの山です。船岡山 標高112m。上りましょう」
石段を登り、15分間歩いて頂上へ。京都市内を一望します。

地形図を見ると、船岡山は、京都盆地にぽこんと出ています。
「船岡山は京都の人にとって特別な場所だったんです」

茶色くてしわしわの岩があります。
「露頭があります。風化しているけどチャート(ほうさんちゅう)」とタモリさん。
しかし、ここで見るのは別のもののよう。
「岩の表面に人の姿が見えませんか?」
「仏さまが彫ってあるんです。鎌倉時代ごろのものと考えられ、金具で掘ったようです。」
像を掘った岩の傍らには、お地蔵さんのような石像も並んでいます。
「ここはお墓?」
「昔の京都の人にとって、このあたりはあの世の入口でした。京都のへりともいえます。室町時代までは野原が広がる、何もない場所でした。
西陣織は、西陣の小さな地域からはじまったけれど、船岡山という何もない「へり」が近くにあったので、広がることができました。今は、西陣と呼ばれる場所は、船岡山の近くまでひろがっています。これも西陣織の発展の理由の一つです。」
梅林さんが説明してくれました。

江戸時代のセレブに愛された高級織物のお宝を拝見

今度は、西陣織の江戸時代の繁栄ぶりをみていきます。
ここで再び案内人は、西陣織の研究をしている鳥井さんに戻ります。

ブラタモリ一行は、西陣に戻り「千両が辻」に来ました。このあたりは江戸時代、帯問屋、糸問屋などが集まって、非常に栄えていました。千両は6000万円くらい、それくらい栄えた通りです。
家同士の軒がつながっていて、織物が雨がふってもぬれあいようになっているのです。元祖アーケードです。

江戸時代からの280年続く老舗帯問屋10代目の木村さんに「御紋本集(ごもんほんしゅう)」という、注文されたものを残した帳面を見せてもらいいます。生地のサンプルと家紋が一緒に保存されています。

天皇家、徳川家、井伊家、神社仏閣などの家紋が・・
時のセレブがお得意さまだったことがわかります。
江戸時代、高値で取引きされ、西陣織は、繁栄をきわめました。

明治時代に西陣を救った新技術!住宅対策

西陣には、明治時代に大ピンチが訪れました。
木村さんに、「明治になって天皇陛下が東京に行く時にいただいた杯」を見せてもらうタモリさん。
「お世話になったということですね。」
天皇陛下や公家など、大切なお客様は東京に行ってしまうし、洋装化の波もやってきて、ピンチ!「杯を渡されてもね」とタモリさん。
どうやって乗り切ったのでしょう。

明治時代の技術を見ることのできる工場で機械を見せてもらいます。
天井まで届くような機械に、穴のあいた型紙のようなものが!
大量生産を可能にする「ジャカート織」というヨーロッパからきた織り方です
ジャカートのおかげで効率が4倍、同じ製品を大量に安く作れるようになり、西陣は生き残ったのです。
工場の和装のかっこいいご主人、タモリさんを「理解がはやいな」と褒める!
海外の技術を取り入れるしなやかさを持っていたんですね。

◆着こなしがすごいと反響!

明治時代の終わりから、西陣は職人が急増。どこに住んだんでしょう?

京都特有の路地、町屋、家の奥にも路地が続き、たくさんの家があります。
これは、職人急増で対策した痕跡。
一つの屋敷を、路地を設けて、きりわけて、たくさんの人が住めるようになっています。
「男心をそそられる入りたくなる路地だね」とタモリさん。

「今日のお題はどうでしたか?」と林田アナ。
「西陣織は、西陣でなければだめだった、必然的にこの場所にできたんだね。応仁の乱~滑稽な戦争のことも調べてわかっておもしろかったね」

ブラタモリ西陣!蕎麦・ポテトサラダ情報!

タモリさんが、鞍馬口通りで「ここは京都に来ると必ずくるところ。うまい蕎麦屋、漬物屋、魚やのポテトサラダがあるんだよ」と言っていました。気になりますね!

◆「京都てっぱん日記」というブログで、蕎麦は、「手打ち蕎麦かね井」ではないかと書かれています。ミシュラン京都版でビブグルマンを獲得する人気店だそうです。ポテトサラダは、魚やさんで食料品店でもある「宮川食料品店」で週に何回か売っているものではないかと推測。近くに「谷中漬物店」もあるそう。
「京都てっぱん日記」には、ポテトサラダを食べた感想もあり、詳しく書いてあります。

「お墨付き!」というブログでも、蕎麦は、「手打ち蕎麦かね井」、ポテトサラダは、魚やさんで食料品店でもある「宮川食料品店」と同じ情報ですね。
こちらは、お店の人にインタビューもしています。

どちらも、さすが地元の方、ポテトサラダ情報を知りたい方は、必見です。

ブラタモリ西陣 ロケ目撃情報

「お墨付き!」というブログには、2019年5月27日に、今回のロケ目撃情報も詳しくのっています。このブログを書いた時点では、テーマは公開されていなかったようです。

2019年5月27日、28日に雨の中でのロケが目撃されているそうです。

・嵐山電鉄の西院駅
・三条西小路の天井川(地図をひらいていた、まいまい京都のルートでもある、江戸時代に物資を運んだ運河があった)
・出町枡形商店街・・御土居(おどい)がある
・千両が辻(西陣・・西陣問屋街として栄えた場所)

さすが地元の方の詳細なレポートです。

ブラタモリ西陣 案内人は“京都高低差崖会”の梅林秀行さん!

案内役「京都高低差崖会」崖長・梅林秀行さんの放送前のイート。

2018年4月21日の「yahooライフマガジン」によれば、梅林さんは、ブラタモリの案内人として最も登場回数が多い中の一人。
現在の林田アナや、近江アナがアシスタントとしてデビューした回も、案内人は梅林さんだったそうで、それだけ信頼の厚い方のようです。

子どものころから、土と水を使って地形観察をしていた梅林さん。
古地図と現在の地図を照らし合わせ、その土地がどんな時間を経てきたかを突き止める作業にすっかりはまり、京都に移住後に「京都高低差崖会」を立ち上げました。京都の町を、高低差に注目して歩くことで、地元の人も気づかない新しい発見があるそうです。

梅津さんがライフワークのひとつにしているのが豊臣秀吉が築いた“御土居(おどい)”。御土居とは、都の内と外を区別する城壁の一種で、全長約23キロメートルの長さがあるそうです。今でも、京都市内には、御土居の跡が風景の中に溶けこむ形で、数多く残っています。

梅林さんは、『まいまい京都』(まいまいは、京都弁でウロウロする)というツアーのガイドもつとめ、とても人気があります。

放送でも、タモリさんとの息の合った様子でしたね。

ブラタモリ西陣 案内人 鳥井さんは、京都観光ガイド・北野界わい創生会の方みたい!




西陣織について

KOUGEI JAPANのサイトに下のように掲載されていました。

History / 歴史

西陣織 - 歴史

西陣織の起源は、渡来人が現在の京都に養蚕と絹織物の技術を持ち込んだ5~6世紀に遡ります。
平安時代に、高級な絹織物を作る官営の職業として普及し始め、現在の上京区にあたる地域には、職人の集まる「織部町」という町も作られました。その後、官営の織物工房が衰えると職人達が自ら工房を起ち上げ、織部町の近くの大舎(おおとねり)町で絹織物業が発展していきます。大舎人町で生産される絹や綾は高品質なことから珍重され、室町時代に「大舎人座」と呼ばれる組織が誕生してからは、受注の幅もさらに大きく広がっていきました。
京都で応仁の乱が起こると、大舎人町は壊滅してしまいます。しかし避難していた職人達が、応仁の乱で西軍の陣地であった地域(現在の上京区大宮)に戻り、織物業を復活させました。この頃に西陣という地名が生まれ、この地で作られる西陣織が日本の代表的な織物のブランドとして発展していくようになるのです。
明治時代になると、西洋からジャカート織機を導入し、高度な技術が実現できるようになりました。現在では、伝統的な着物以外に洋風着物やインテリアなど時代にマッチした製品の製造にも力を入れています。



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